人々の救済や幸福を祈り、1884(明治17)年4月21日、高さ133㍍の那智の滝から座禅を組んだまま、身を投げる捨身入定を行った林実利(はやし・じつかが)行者(享年42歳)―。墓(宝篋印塔〈ほうきょういんとう〉)は滝から少し離れた那智勝浦町の那智山区共同墓地内に建てられており、命日前の4月19日には毎年、遺族らが足を運んでいる。今年も東京都や長野県、神奈川県、千葉県から5人が実利行者の供養に訪れた。
実利行者は、1843(天保14)年に美濃国恵那郡坂下村(現・岐阜県中津川市坂下)の農家の子として生まれる。御嶽講(御嶽教)に入信して修行し25歳の時、妻と子どもと別れ出家した。
68(明治元)年に政府が神仏分離令を発布。72(明治5)年に修験道禁止令が出され、実利行者は政府の追撃を逃れて活動を続ける。
その後、大峯山で過酷な千日行を2度も満行。深仙宿、大台ヶ原、怒田宿、那智山で厳しい修行を通算16年行い、宮家からも信仰され、有栖川宮が役小角に次ぐ優れた山伏を意味する「大峯山二代行者実利師」という名号を賜ったという。
80(明治13)年には実利行者を崇敬する信者らの組織「仏生講(ぶっしょうこう)」もつくられた。83(明治16)年、那智山で冬ごもりをし、翌84(明治17)年に那智の滝に捨身入定を行った。
修験道などには、行者が困難や苦しみを一身に引き受けることで、人々を救済し幸福に導く「代受苦」という考えがあり、同様の観念は原始宗教に根差すとされる。また、苦行による罪業浄化の上にできる密教的な即身成仏や自然界との合一などの思想もある。
資料や遺族の言葉を合わせると実利行者は人々の救済や幸福を祈り、捨身入定に至ったと推測できる。
入定数日後に引き上げられた遺体は、座禅を組んだ状態のままであったと伝わる。墓は信仰対象となり、各地より信者が参拝に訪れたという。
故郷の中津川市坂下では、金峯山修験本宗実利教会が毎年4月19日に霊神祭を営んでいる。命日の21日は必ず雨が降るといわれており、その日を避けて斎行されている。
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■那智山に遺族らが
今年4月19日、長野県の法苑院萱垣山・願王寺住職の萱垣光英さんや実利行者のひ孫・大竹ともこさん、青木清枝さんら遺族が来町。墓や周辺を清掃し、供物を並べた。
萱垣さんが読経し、修験道行者でもある青木さんがほら貝を吹いて、実利行者の遺徳をしのんだ。大竹さんは「厳しい行を成し遂げられたご先祖。私を含め、多くの子孫が尊敬している」。
青木さんは「実利行者を調べる内に修験道に取り組むようになった。人々の幸せを願い、入滅された。これほどの行者はいない」と話した。
萱垣さんは「父の幸道の時代から、こちらでの供養を続けて50年。遺族の高齢化もあり、参拝する人数も減ってきた。実利行者の供養はもちろん、いつもわれわれ子孫をお守りいただいていることにも感謝をささげた」と語った。
翌日一行は、実利行者にゆかりのある下北山村も訪ねた。
(2023年6月1日付紙面より)