ニュースアーカイブ|ARCHIVES
アーカイブ検索で表示されるグレーのリンクのない記事については、熊野新聞紙面をご覧ください。
ご購読のお申し込み
過去2年分の熊野新聞は、
SHIMBUN ONLiNE
でご購読頂けます。
新聞オンライン(電子新聞)
カレンダー検索:36件の記事がありました
【検索ステータス】 
2023年01月13日
1 地域の発展と豊作願う
 熊野那智大社にまりひめ奉納  (那智勝浦町 )

 那智勝浦町苺(いちご)生産組合(桒野稔近〈くわの・としちか〉組合長)とJAみくまの農業協同組合が12日、熊野那智大社(男成洋三宮司)に和歌山県のオリジナル品種のイチゴ「まりひめ」約5㌔(20パック)を奉納した。

 那智勝浦町産のイチゴの振興と豊作を願い、この時季に毎年奉納している。今年も新型コロナウイルス感染拡大防止のため、おととし、昨年に引き続き生産農家や町立市野々小学校児童、同生産組合のマスコットキャラクター「まりりん」、同町イメージキャラクター「なっちー」らの参列をやめ、平安衣装によるイチゴの振る舞いも中止とした。

 神事には桒野組合長と組合員、JAみくまの農業協同組合職員ら合わせて10人が参列。巫女(みこ)が「那智の瀧舞」を奉納し、代表して桒野組合長が玉串をささげた。

 同組合は1971(昭和46)年に結成され、最盛期には、栽培面積4・5㌶で45人のイチゴ農家が生産に従事してきた。しかし生産者の高齢化などが原因で栽培が減少傾向となっていた。

 現在は若者を中心に再建され、10軒20人の農家が約70㌃の農地でイチゴを栽培している。

 まりひめは紀州の伝統工芸品「紀州手まり」にちなみ、命名された東牟婁地方を代表する特産品。同町太田地区が主要産地で、果実は大きめで甘味が強く酸味もほどよいのが特徴だ。

 神事を終え、桒野組合長は「昨年と比較して、年末から早い寒波が来たため、出荷量は昨年と比較して出だしが遅い。しかし、味は向上していて、甘くておいしいものになっている。昨年と同じ収量を目指したい」。

 今後については「那智勝浦町は観光産業がメインの町。コロナの早期終息と、地域の発展、組合員の健康を祈願しました」と話した。

 「まりひめ」は現在、出荷のピークを迎えている。

(2023年1月13日付紙面より)

まりひめ約5㌔を奉納した=12日、那智勝浦町の熊野那智大社
金幣(きんぺい)の儀が行われた
奉納されたイチゴ「まりひめ」
2023年01月13日
2 受けたい医療やケア考える
 かわりない会で人生会議を紹介  (紀宝町 )

 毎週月曜日に高齢者が集まる通所サービス「かわりない会」(牧戸光彦会長)は9日、紀宝町鵜殿の老人憩の家讃寿(さんじゅ)荘で今年最初の活動があり、演劇を通して「人生会議」の必要性を学んだ。

 人生会議は、もしものときのために、自分が望む医療やケアを前もって考え、家族や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取り組み。

 演劇は「紀宝リベンジャーズ」と題し、くまのなる在宅診療所(同町井田)の濱口政也医師、医療・介護従事者が出演した。濱口医師演じる高齢男性が脳出血で倒れた後、過去に戻り、人生会議に取り組み、自身が望むケアを改めて計画する物語。

 「命の危機が迫った状態になると、約70%の方が医療やケアなどを自分で決めたり、望みを人に伝えたりすることができなくなるといわれている」などと話し、町地域包括支援センターが作成した「簡易版エンディングノート」や、医師が定期的に自宅を訪問する訪問診療も紹介した。

 最後は「医療や介護が必要になったとき、どこで過ごすのか、どこで最後を迎えるのか、それが自宅であれ、施設であれ、病院であれ、そこに優劣はありません。本人の意向が尊重されることです。『もしも』のときに備え、受けたい医療やケアについて、大切な人と話し合ってみてはどうでしょうか」と伝えた。

 濱口医師は「家族で話し合っておくことが大事」とし、訪問診療の手順なども話した。演劇後は、出演者も一緒にぜんざいに舌鼓を打った。

(2023年1月13日付紙面より)

演劇を通して人生会議を学ぶ=9日、紀宝町鵜殿
2023年01月13日
3 枝打ち鳴らし、平癒願う
 大泰寺で初薬師  (那智勝浦町 )

 那智勝浦町下和田の定光山大泰寺(西山十海住職)で8日、初薬師法要が営まれた。薬師堂で西山住職らが般若心経などを唱え、参拝者らがヤナギの枝を打ち鳴らして家内安全や無病息災などを祈った。

 同寺は開創1200年、比叡山の開祖・最澄により開かれたという古刹(こさつ)。この日は、秘仏で本尊の薬師如来像も開帳された。薬師如来像は1968年に国の重要文化財に指定されている。

 午前・午後の2回に分けて営まれた法要には、関係者含む約40人が参列。参拝者らは錫杖を手にした西山住職が唱える薬師如来の真言「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」に続いてヤナギの枝を打ち鳴らし、厄を払い清めるとともに病の平癒などを願った。焼香後には厄よけのお札が授与された。

 西山住職は「新型コロナウイルス感染症の一日も早い収束をお祈りしたい。薬師如来は病気を治す仏様。ご利益があるように、一生懸命法要を勤めさせていただきたい」と話していた。

 13日(金)午前10時30分からは、大般若祈祷会が営まれる。餅まきは正午から。当日の祈とう申し込みは薬師堂内で受け付ける。

(2023年1月13日付紙面より)

西山十海住職らが法要を営んだ=8日、那智勝浦町の定光山大泰寺
平癒などを願い、参拝者らが枝を打ち鳴らした(福田萌夏さん撮影)
2023年01月13日
4 一連の手順確かめつつ奉射
 有田神社総代会が「お的祭」  (串本町 )

 串本町有田上にある有田神社(山本貞夫宮司)の総代会(中橋雅総代長)が6日、「お的祭」を営み準備から当日奉仕までの一連の手順を確かめるなどした。

 同神社の新春行事の一つとして伝わっている「お的祭」。1月6日を期日とし氏子区域(有田、有田上、吐生)から弓頭を人選して営む形が長らく定着しているが、最近になって新型コロナウイルスの情勢などで中止が続いている。このような状況でも総代会だけは手順を適切に把握して文化の継承に努めなければと発起し、今年は本来の形とはならないが総代のみで「お的祭」を営むこととした。

 花形の弓頭には副総代長の多田公次さん(69)と総代の多田和男さん(67)を人選。2人は古式の修祓(しゅばつ)「湯立ての儀」で身を清めて神前奉告をし、同神社最寄りの耕作地に設けた的場へ参進した。

 的場には2㍍四方の的があり、2人は約25㍍離れた場所からそれぞれ1、2巡目は各6本、3巡目は3本を的に向けて奉射した。その後同神社へ戻り、白装束から黒装束へと着替えて世話役から魚(ハゲの切り身)の振る舞いを受け、再度的場へ参進。2本を的、最後の1本を渾身(こんしん)の力で的の上に奉射し、同神社で再度魚の振る舞いを受けるなどして締めくくった。

 氏子の向上心と勇ましさをささげて氏神に安堵(あんど)してもらう意味合いがあるとされる同神社の「お的祭」。多田公次さんは「コロナが終息しみんなが良い年を送れるようにと願って臨んだ。今年は総代で奉仕したが、来年はぜひとも(本来通り)住民中心でやれる形になればいいかなと思うし、そのように伝統を引き継いでいければ」、和男さんは「何もしないでいると準備から当日までの流れを知っている人がいなくなってしまうので、こうして総代だけで形だけでもやれたのは大きな成果だと思う。(奉仕を通して)願うのは、コロナの終息と世界平和。世界ができるだけ早く安定し、紛争のない世の中になってほしいと思う」と弓頭の奉仕に込める思いを語った。

(2023年1月13日付紙面より)

「お的祭」の奉射に臨む総代ら=6日、串本町有田上
2023年01月13日
5 フルジェンテ桜井が優勝
 新宮SSS招待兼ヤタガラスカップサッカー大会  
2023年01月13日
6 努力を忘れず成長感じて
 ミニサッカー大会with加藤恒平選手  (新宮サッカースポ少 )
2023年01月13日
7 上富田、王子が制す
 サッカー「トルベリーノカップ」  
2023年01月13日
8 26人が大烏帽子山まで歩く  山歩き部会で初登山楽しむ  (紀宝町 )
2023年01月13日
9 里親パネル展&相談会  那智勝浦町教育センターで  
2023年01月13日
10 一丸となってまい進  優良消防団員を表彰  (太地町 )
2023年01月13日
11 色鮮やかなスイセン  新宮市三輪崎で群生  
2023年01月13日
12 1年の無事やコロナ収束など祈願  天御中主神社で例大祭など  (新宮市 )
2023年01月13日
13 新設内覧会を開催  「ひだまり いのさわ」  (新宮市 )
2023年01月13日
14 県内の移民史など紹介  中央公民館でパネル展  (古座川町 )
2023年01月13日
15 生活支援商品券交付開始  引き換え期間は31日まで  (串本町 )
2023年01月13日
16 ヤツデの花が盛り  新宮城跡で  
2023年01月13日
17 お悔やみ情報
  
2023年01月01日
18 「見える」「魅せる」。広がる、「熊野学」
 東京大学との協定の先に  (新宮市 )

 全国には、約4800社もの熊野神社があります。―そう聞いてぴんとくる人は一体どれだけいるだろう。東京大学の大向一輝准教授は、デジタル技術を用いて全国4800社に及ぶ熊野神社のリストから住所を緯度・経度に変換。地球儀ソフトに落とし込んで「全国には、約4800社もの熊野神社があります」と可視化し日本列島にくまなく浸透する熊野信仰の広がりを目視することができると実践してみせた。

  □     □

■「熊野」とは何か



 現在、突出した資源もなく人口減少にあえぐ新宮市が、交流人口増加や地域活性化のためにPRを進める、地域に根差す歴史と文化。市は「熊野学」について「広範で深遠な熊野の歴史・文化を人文・社会・自然科学などの各分野から学際的・総合的に研究し、熊野が持つ独自性と普遍性を解明するとともに、その個性と魅力を検証していくこと」と定義しているが、歴史的・地理的分野の広さか、その奥深さ故か「熊野学」は広く一般に浸透しているとは言い難い。

 「熊野」とは何か。「熊野学」の門戸は広すぎて狭い。歴史、信仰、文学、自然、伝統行事。現在目にすることができるもの、過去の遺物、精神世界が混在する。これまでも有識者たちがそれぞれの分野で調査・研究を進め「熊野」へのアプローチを展開してきた。「解き明かす」ことは「見える」こと。不明瞭な資源の「見える化(可視化)」が、「文化」「歴史」のPRに向けたアプローチの一つであると考える。

 2021年3月。新宮市と東京大学大学院人文社会系研究科・文学部は、相互に連携協力することにより次世代人文学の構築、市・熊野地方における学術の振興と地域活性化に資することを目的に協定を締結した。

 秋山聰文学部長が熊野に興味を持つきっかけは13年9月。台風の中、熊野古道「大雲取越」を歩いた際に、「円座石(わろうだいし)」から見上げた丸い空に感動したという。以降、数回にわたり当地域で研修会やセミナーなどを実施。当地域との結び付きを深化させてきた。

 協定締結以降、東大ではフォーラムや現地(熊野)での体験プログラムなどを通して歴史文化、自然、文化行政などを研究。冒頭の大向准教授の研究発表はその一環で、それ以外にも学術的、文化的な振興に向けてさまざまな活動が展開されている。

 協定を機に、同市下本町の市文化複合施設「丹鶴ホール」2階の「熊野エリア」に「東京大学文学部熊野プロジェクト新宮分室」が設置され、分室には同大学次世代人文学開発センター助教の太田泉フロランスさんが着任。年に数回分室に在中し、市および熊野地方と同大学との橋渡し役を担っている。

 協定締結から約1年半が経過した22年10月15日。同大学で文学部シンポジウム「文学部による地域連携の試み―人文学応用連携の促進を目指して」が開催され、田岡実千年市長や速水盛康教育長も参加する中、同大学の取り組みが紹介された。

 秋山部長は「熊野はいにしえより外来者を寛容に受け入れてきており、当大学が目標の一つに定める『ダイバーシティー(多様性)とインクルージョン(包括)』を早くから実現していた土地。人文学の全分野にとって研究上のさまざまなアイデアを思いつくことができる、そういう可能性を秘めた場所である」と当地方を紹介。

 「外国人研究者や留学生を活動に積極的に巻き込むことによって、歴史、文化、伝統などが、広く知れ渡り、世界の人々の興味・関心を一層高めることができれば」と期待を込めた。

  □     □

■歴史は過去ではなく今に生きている



 「新宮市、熊野の歴史的風土は過去のものではなく、今に生きている景観。そこに目を付けたのが東京大学」。そう話すのは速水教育長だ。「熊野を見抜いている」とも。住民である私たちにとって「熊野・新宮」は、身近すぎてその本質を見極めることがやや困難となっているのではないだろうか。

 速水教育長は推測する。「異文化と多様性と景観。このことに鋭い感性を持っている。東京大学からすると熊野そのものが非日常の場であり、多様性を考えるフィールドである。そういった景観の中で、何を見抜くことができるかの実体験を学生に提供しているのだろうと思います」と。

 ヨーロッパ中世美術、特に金細工工芸研究が専門の太田さん。学生の頃、研究のためにスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼を行った際に、その体験を比較するために16年に初めて熊野古道を歩いた。「まさか将来、熊野に住む素晴らしい機会を得られるとは想像もしていませんでした」と振り返る。

 「実際に熊野で生活してみると、頭で思い描いていた『熊野』を上回る本質的な価値にしみじみと気が付かされました。古来よりこの地に住まう人々が見抜いてきた『熊野』の価値、さまざまな場所に神仏を見いだし折に触れ、それに感応する豊かな心、幾重にも連なる山並みや香り高い植生、峨々(がが)たる巨石、明らかに色彩の異なる水源などの豊かな自然と、それに対峙(たいじ)し共生してきた人々の祈りや思いが、決して過去のものだけではなく、現在と地続きであることを強く感じます」。

 「熊野は特別」。その理由を理解するのにはまだまだ時間が必要、としながらも「皆さんとの対話の中で、少しずつ本質的な『答え』に迫っていきたい」と前を向く。

 シンポジウムでは、協定締結に関して「独り善がりな形で押し付けるのではなく、しっかりと両者で対話を重ねて手を取り合って進めていくことで、相互の考えや希望が一致するのか、共に形にしていくことが必要では」と話していた。

  □     □

■「熊野・新宮」のブランド化



 改めて「熊野・新宮」のブランド化を進めるための必要材料について考えてみる。学術的な研究も一般に浸透しなければ意味がない。漠然と「地域活性化」といったところで、明確なビジョンがないと研究結果は一部の知識層のものになりかねない。資源も「宝の持ち腐れ」だ。

 協定締結に当たって、協定書にはかつて起請文(きしょうもん)として使われた「熊野牛王(ごおう)符(宝印)」にあやかり、熊野三山の牛王符が印刷された用紙が用いられた。連携事業の協働を熊野権現に誓った。

 同大学では今後、欧米や国内諸地域との連携拡大を軸とした熊野フォーラムの開催や、新宮市の中高生との交流、東大生の新宮市へのホームステイ、社寺や史跡のマッピングなどを企画し、協定のさらなる深化を目指している。

 「熊野学」の「見える化」に向けて取り組みが進む中、「熊野・新宮」に住む私たちの役割とは―。「土地に魅せられる」一番の権利を有するのは私たちに他ならない。幸運にも、同大学との協定により「知」を享受する機会を得た。「知」は活用の資材になり得るのか。それをブラッシュアップするのは、熊野の地に抱かれた私たちの使命だ。

 かつて秋山部長が見た熊野の空。大向准教授が見せた熊野信仰の広がり。そして太田さんが見つめる熊野の未来。私たちが知っているようで知らない「熊野・新宮」が、まだまだ存在する。

 漠然としたフィールドから「見える」熊野・新宮へ。新宮市と東京大学の取り組みが、いつか世界中の人々を「魅せる」舞台へ導くことを願ってやまない。

(2023年1月1日付紙面より)

全国に広がる4800社の熊野神社
秋山聰文学部長(左)と太田泉フロランスさん
市文化複合施設「丹鶴ホール」2階熊野学研究室に設けられた「熊野プロジェクト新宮分室」
2023年01月01日
19 ロケット「カイロス」初号機の打ち上げ目前!
 見物関係情報を振り返る  

 ロケット「カイロス」初号機の打ち上げを今年2月末ごろに再設定。スペースワン株式会社が昨年10月、スペースポート紀伊周辺地域協議会への報告をもって公表した。依然努力目標の域だが、地元は実現を有望視し大きな期待を寄せている。打ち上げに向け、地元で共有されている見物関係情報(2022年12月1日時点)を振り返る。

  □     □

■スペースポート紀伊とロケット「カイロス」



 スペースポート紀伊は串本町田原~那智勝浦町浦神にある国内初の民間ロケット射場で、運営者はスペースワン株式会社。打ち上げるロケット「カイロス(KAIROS)」は全長約18㍍、重量約23㌧。3段式のロケットモーター(固体燃料)と軌道調整用液体エンジンを駆使して高度500㌔に達し、先端のフェアリング内に積載した人工衛星を軌道投入する。その時点での到達速度は秒速約8㌔。投入先が太陽同期軌道(通称・SSO)の場合は、重量150㌔の打ち上げ能力を発揮する。

 将来的に年間20回の打ち上げ頻度を想定し、契約から打ち上げまで世界最短時間の宇宙輸送サービス実現を目指している。ロケットの名前はギリシャ神話に登場する時間神にあやかっていて、同社は「ii-based dvanced&nstant ROcket ystem」の略称としている。

 以上が串本町の町民や両町の小中学生向けワークショップ(WS)で紹介されている、ロケット「カイロス」の基本情報。付帯して各地の射場やロケットと飛ぶ仕組み、人工衛星の役割や打ち上げに対して地域ができることなども解説し、これら一連の情報を基盤にして機運醸成が図られている。

  □     □

■浦神半島を望める場所が良好な見学の目安



 補足すると、ロケット「カイロス」が飛ぶ方角はおおむね東~南南東の間。序盤は直上へ上昇し徐々にこの方角の範囲へ傾く航跡を描く。打ち上げ時は射点から半径1㌔圏内への立ち入りができないため、その外周から見学する形となる。

 初号機については串本町田原の田原海水浴場と那智勝浦町浦神の旧浦神小学校に設けられる入場チケット(有料)制の公式見学場〈パーク&ライド方式〉が至近。チケットの入手方法は「ロケット『カイロス』初号機打ち上げ応援サイト」(アドレスhttps://wakayama-rocket.com)を通して事前登録者にメール送信される。打ち上げ情報も発表間もなくメール送信されるため事前登録だけしておくのも便利だ。

 串本町はおととしのイベント「宇宙ウイーク」の一環で射点付近から打ち上げ方向へ向けサーチライトを照射し、視認可能な範囲をおおむね把握。遠近差は伴うが、浦神半島を望める場所であれば良好に見学できることを確認している。初号機打ち上げ前後に国道42号那智勝浦町浦神―串本町津荷間〈予定〉で見物に伴う支障回避のため交通規制が敷かれる見込み。この区間を避けて見学場所を決めると、多少の混雑はあっても難は少なくで済む。那智勝浦町側から眺めると徐々に離れる航跡となるため、射点の近場で見届けることをお勧めしたい。

(2023年1月1日付紙面より)

橋杭岩付近から眺めるロケット「カイロス」打ち上げのイメージ図〈CG〉(串本町提供)
打ち上げ事業を展開するスペースワン株式会社の総合司令棟など
実物大ロケット「カイロス」懸垂幕
射点付近からのサーチライト照射の様子。浦神半島を良好に望めることが見物場所の目安となる
2023年01月01日
20 地域住民が気軽に集える場に
 複合センターリニューアル中  (古座川町 )

 地域住民が気軽に集える場に―という思いをもって古座川町が本年度、下部区内にある複合センターの改修を進めている。イメージするのは社会福祉協議会が事業展開する巡回型サロン「ふれ愛カフェ・よりみち」の常設化。今年4月の実現を目指して目下、リニューアル工事が進んでいる。

 同センターは、山村で暮らす町民の生活改善と心身向上を図り高齢者対策も含めて豊かで明るい社会を実現するための拠点施設として1979年に設置。名称に含まれる「複合」は今でいう多目的に相当し▽生活改善講習▽一般教養講習▽結婚式場▽災害時避難▽各種団体等の集会所―といった用途が管理規定で定められている。

 建物は鉄骨構造2階建てで、1階に管理室・調理室・談話室・実技訓練室など、2階に娯楽室2室と大会議室がある。後に耐震化され現在の建築基準法にも適合する堅固さを備えたが、南海トラフ巨大地震に伴う津波浸水に対しては脆弱とされ2020年、最寄りに津波避難総合センターが新たに設置された。

 その1階部分が集会所として平時利用できることで、複合センターがこれまで果たしてきた役割は自然移行。今後の活用策を模索する中で浮上したのが町民に好評を得ている同サロンの常設化で、同町は必要な環境を整えるべく本年度一般会計で改修予算を当初計上し議会の承認を得て動き出した。

 担当課の町健康福祉課によると、同サロンを運営する社協見守り員のノウハウも踏まえて設計をし昨年10月に着工。改修の対象は1階部分で▽既存の段差を極力解消するなどしてバリアフリー化▽構造上取り除ける壁を外して開放的な居場所を確保▽土足で利用できるよう床を外す―などの構造変更をする。今年2月末に工事が完了し所要の準備を経て4月1日付でリニューアルオープンする予定だが、同課は昨今の社会情勢の影響で工期延長の可能性があり、若干のずれ込みを含み置いてほしいという。

 改修後の環境を社協見守り員の拠点とすることで常設型を形にし、従来の巡回型も職員連携により継続するという。社協見守り員の中核・久保由美子さんは「立ち寄れば必ず誰かがいるのがふれ愛カフェ・よりみち。常設型は町の端にできるが近くにオークワ古座川店があるので、日頃の買い出しの延長で気楽に立ち寄ってもらえれば」と利用の筋道を思い描いて常設型の準備を進めている。

 地域包括支援センターもこの環境を新たな相談窓口として捉え、定期的に職員が赴いて町民のニーズに対応するという。高齢化率に呼応して高齢者層の利用が主体になっている同サロンだが、地域の全世代が集い交流するのが本来の趣旨。常設型もその趣旨を受け継ぐとし、他の世代も立ち寄るようになり必要が生じれば2階部分の改修も検討するという。

 最後に町民の多くが感じるであろう疑問点として、広範な町域全体からどのように町端の常設型を利用してもらうのか。目下悩みの種となっていて今後、課枠や自治体枠を超え地域全体で良策を導き出すことが必要となりそうだ。

(2023年1月1日付紙面より)

地域住民が気軽に集える交流の場として改修中の古座川町複合センター

社協の巡回型サロン「ふれ愛カフェ・よりみち」の様子。この状況の常設をイメージして改修を進めている
2023年01月01日
21 父から子へ、子から母校へ。
 校歌の原曲を北大へ寄贈  (那智勝浦町 )

 「ある時父が、この曲は北大の校歌じゃないかと聞いてきた。それは父が趣味で集めていたSP盤レコードでした」―。

 そう話すのは那智勝浦町浦神在住の脇地式三さん(78)だ。和歌山県立新宮高校を経て、1965年に北海道大学に進学した脇地さん。父が所有していたのは「Victor製No.35844」というレコードだった。在学中のさまざまな思い出はあっても、母校には校歌がなかったのではと振り返る。

  □     □

■北海道大学について

 北海道大学の起源は1876(明治9)年に設立された札幌農学校にまでさかのぼる。「Boys,be ambitious(少年よ、大志を抱け)」で有名なマサチューセッツ農科大学長であったウィリアム・スミス・クラーク博士が、新設された同校に教頭として招かれ、学校の基礎づくりに大きな役割を果たした。

 1907(明治40)年に、東北帝国大学が設置されたことで、同校は東北帝国大学農科大学となった。その後は、18(大正7)年に北海道帝国大学設置に伴い、北海道帝国大学農科大学となり、47(昭和22)年には北海道大学に、2004(平成16)年に国立大学法人北海道大学となった。北大では教育研究に関わる基本理念として「フロンティア精神」「国際性の涵養(かんよう)」「全人教育」および「実学の重視」を掲げている。

  □     □

■校歌がない

 「多くの趣味を持っていた父が、東京の大学に通っていた頃に購入したものだと思う」と前述のレコードについて脇地さんは語る。

 北大といえば、学生寮「恵迪寮(けいてきりょう)」の寮歌「都ぞ弥生」が最も有名ではないだろうか。

 北大に関する歴史的な公文書や各種資料を収集・整理・保存し、調査研究などを行う同大学文書館に確認したところ、正式な校歌はないとの回答が返ってきた。

  □     □

■父のレコード

 ある時ふと、父のつぶやいた言葉「この曲は北大の校歌じゃないか」が脳裏に浮かんだ。父が言う曲は前述のレコードB面の「War Song(Tramp Tramp Tramp)」だった。脇地さんはすぐさま、大阪府北区の北大関西同窓会館を訪ねた。

 校歌について会員に問い合わせたところ、「北大にはないが、前身である札幌農学校にあったはず」との返答が。「校歌 永遠(とこしえ)の幸」の楽譜をコピーし、脇地さんに手渡した。

 もしやと父の言葉がよぎる。「永遠の幸」と父のレコードは同じ曲なのではないか。真相を知りたい一心で脇地さんは自宅に戻り、レコードを持って、再び同窓会館へと向かった。

  □     □

■父から子へ、子から母校へ

 持参したレコードを同窓会で確認したところ、「永遠の幸」の原曲であることが判明。文書館によると1901年、札幌農学校創立25年記念を迎えた際に作られた写真帳に「永遠の幸」が校歌として紹介されているという。

 「永遠の幸」は当時、同校に在学していた本科4年級の有島武郎氏(後に小説家として活躍)が原曲「Tramp Tramp Tramp」に「イザ イザ イザ うちつれて進むは今ぞ 豊平(とよひら)の川尽せぬながれ 友たれ永(なが)く友たれ」などと歌詞を付けたものだ。原曲の音源自体は文書館も所有していなかった。

 脇地さんは「寄贈についてはしばらく考えた。しかし、所有者の父も亡くなった。兄も北大出身なので母校には世話になっている」。

 そんな思いから、父が大切に所蔵していたレコードは時を経て、母校(文書館)へと寄贈された。

  □     □

■文書館では

 昨年6月23日、文書館がレコードを受領。その翌月7日、脇地さんと同窓会宛てに「資料受領書」が届く。担当した特定専門職の山本美穂子さんから感謝の手紙も同封されていた。

 山本さんに連絡を取ったところ、北大の入学式などの際には、学校にまつわる「永遠の幸」か「都ぞ弥生」などが流されるという。山本さんは「関係者の中では『永遠の幸』の原曲が『Tramp Tramp Tramp』であるということは知られていた。しかし、貴重なものを寄贈いただきありがたい。どのような方がお持ちであったかということも重要だと思う。レコードはデジタル化して閲覧室で聞くことができます」と話していた。

 レコードは現在、北大の軌跡が詰まった文書館に保管され、同校が紡いできた歴史の一部となった。今後は文書館1階の展示ホールにて、デジタル音源を自由に聞くことができるような機会を設けたいとしている。

  □     □

■イザ イザ イザ

 原曲「Tramp Tramp Tramp」は、ジョージ・フレデリック・ルートが1864年にリリースしたもので軍歌・行進曲だ。アメリカの南北戦争時代、人気曲の一つに数えられている。

 脇地さんは「クラークさんの影響で、この曲が農学校の校歌になったのではないだろうか。北大の資料になってうれしい」と語る。

 「♪Tramp Tramp Tramp♪」。昨年11月末の午後、那智勝浦町内の喫茶店内に勇ましいアナログ音源が流れた。脇地さんが原曲のレコードをカセットテープに録音したものだった。

 巻き戻し、再生という作業を何度か繰り返し「僕の手元にはこの音源しかない。でもね、これでじゅうぶんです」と脇地さんは笑顔で語った。

 父から子へ、子から母校へと渡ったレコードは、さまざまな思いや歴史を音楽に乗せて、クラーク氏の教えを受け継ぐ学生(子)たちへと伝わり、語り継がれていくのではないだろうか。

 「イザ イザ イザ」―。活気ある校歌の歌詞を目で追いながら原曲に耳を傾けてみる。力強い行進曲は、店内だけでなく、記者の心にも大きく響いていた。

(2023年1月1日付紙面より)

脇地式三さんが寄贈した「永久の幸」の原曲レコード(【SPレコードVictor製、No35844,1927年】北海道大学文書館所蔵)
北海道大学文書館から届いた受領書や手紙
脇地式三さん
唯一残る音源を楽しんでいるという
2023年01月01日
22 移民の子・石垣栄太郎
 足跡の一部をたどる  (太地町 )

 「少年栄太郎は命をかけた人間と鯨の格闘を見て育った」―。捕鯨の町・太地で生まれ、渡米して画家になった石垣栄太郎(1893~1958年)。1920~40年代にわたりアメリカ画壇で活躍したが、画家になるために渡米したわけではなかった。「移民の子」として、歩んだ日々や多くの人々との出会いの中で道を切り開いていった栄太郎の足跡を追ってみたい。

  □     □

■渡米、そして転機



 冒頭の一文は栄太郎の妻で評論家の綾子氏の著書「海を渡った愛の画家 石垣栄太郎の生涯」に記されていたものだ。

 海外への出稼ぎが多かった当時の太地。「村の悪童」とも呼ばれた栄太郎が、小学校に入学すると同時に船大工であった父・政次が渡米。数年後、父に呼び寄せられた栄太郎は、新宮中学校を退学し渡米した。

 父と共にソーミルを経て、カリフォルニア州ベーカーズフィールドに行き落ち着く。働きながら、夜は英語を学んだ。

 聖書や社会主義関係の書物を読みあさるようになった栄太郎は父と離れ、サンフランシスコに移り住む。夜学に通い、スクールボーイや掃除人などの仕事に就く。

 ある時、転機が訪れる。英詩人・菅野衣川とその妻で後に恋仲となった彫刻家のガートルド・ボイルと出会う。ボイルの紹介でウイリアム・ベスト美術学校に通うことに。その後はカリフォルニア州立大学美術学校で本格的に美術を学んだ。

 父は「金が貯(た)まったら帰って金物屋をしよう」と語り、叔母は美術学校を望んだことに猛反対した。しかし、栄太郎はわが道を進んだ。心には故郷や家族を思いながら。

  □     □

■移民の子



 「移民県」の一つ・和歌山県では、多くの人々が海を渡った歴史がある。その一人である栄太郎は自らを「移民の子」だと述べている。

 太地町歴史資料室学芸員でニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員の櫻井敬人さんは「移民であると同時に子どものため、半人前扱いされる。移民は多くの権利から遠ざけられる上に、子どもの彼はさらに苦労が伴ったのでは」と話す。

 在米生活の中で、日本の社会主義者の先駆者である片山潜とも出会っている。栄太郎自身も社会主義研究会に参加し、片山との交流も続いた。

 櫻井さんは「栄太郎は社会不正義に虐げられた人に目が向いた。社会の不正義を正すためには自身に何ができるかを考え続けた人だと思う」。

 さまざまな政治運動に身を置き、重要人物とも触れ合っていたことを挙げ「彼は絵を描くことで世の中に貢献しようとした。そのスタイルを最後まで貫いた」と語った。

  □     □

■ボーナスマーチ



 1929年から始まった世界恐慌で、民衆は苦しい生活を余儀なくされていた。そんな中、第1次世界大戦に従軍した兵士に約束された恩給が支払われないことからデモが発生。この時、差別の垣根は取り払われ、黒人と白人が同じ目的に向かい手を取り合ったとされる。

 和歌山県立近代美術館教育普及課長の奥村一郎さんによると、栄太郎は彼らを取材し「ボーナスマーチ」を描いたという。32年の作品で、黒人が傷ついた白人をたくましい腕で抱きかかえ、前方を見据えている力強い絵だ。現在、県立近代美術館に所蔵されている。

 その作品は2020年、米ニューヨークにあるホイットニー美術館であった壁画運動を取り入れた大規模な特別展で展示された。日本人画家では栄太郎のみだった。

 奥村さんは「石垣は差別や怒り、社会問題を描いてきた。戦後、国外追放され帰国した。日本では知られておらず、アメリカで描いた絵も生前は発表されなかった。綾子さんの努力もあって、各地に作品が所蔵された。そうして彼の評価は高まっていった」と話す。

 特別展の際に作品解説をしたカリフォルニア大学マーセド校の美術史教授・シープー・ワン(王士圃)さんは栄太郎について「真面目なアーティストで、自分の信念を持って描いている。絵の技術力も高く、自分のスタイルを持った作家」。

 特別展については「彼の存在は知られていなかったが、作品を熱心に見ている人も多かった。彼を知り、喜んでいる人もいた。太地から出ていくことが冒険。コミュニティーを移り続けたことも開拓的なことだったのでは」と評した。

  □     □

■石垣記念館設立



 1958年1月―。「あ、綾子、そばにいてくれるのか、うれしいねえ」。この言葉を最後に移民の子はこの世を去ったという。村の悪童と呼ばれた男は故郷の両親の墓の隣で眠りについた。

 91年6月、「鯨の町の小さな美術館」として、栄太郎と綾子氏の活動を顕彰する財団法人石垣記念館が開館した。

 理事長は綾子氏が務め、館内には栄太郎の遺作や遺品、綾子氏の著作などが永久保存・保管されている。開館後はさまざまな展示が催され、多くの人々でにぎわう。

 96年、綾子氏がこの世を去り、2002年に財団法人石垣記念館の残余財産と土地・建物、設立理念を継承して町立として運営がスタートした。

 21年には開館30周年を迎え、記念企画展や記念講演が開かれた。そして今年、栄太郎が生誕130周年、綾子氏が生誕120周年を迎える。

  □     □

■たどった足跡は一部



 21年6月に実施された生涯学習講座「移民の子~石垣政次と栄太郎の渡米後の足跡~」で講師の櫻井さんは「現代の人々が移民は自分と関係することとして捉えるような時代になってきた。栄太郎が移民の子であったことを掘り下げることで見えてくるものがある。さまざまな評価が存在するはず」と締めくくった。

 記念館の業務や移民に関する事業に取り組む町教育委員会の宇佐川彰男教育長は「画家になった栄太郎は珍しい移民の形。移民が多い町にとって、石垣夫妻の存在はありがたい」と語った。

 この記事で栄太郎について紹介できたのは、彼の人生のほんの一部に過ぎない。深く掘り下げるには、夫妻の思いや時間、記憶が詰まった石垣記念館に一度、足を運んでいただけたら幸いだ。

 移民の子・栄太郎は現在、故郷の大地に眠っている。その足跡や作品は現在も顕彰され、次世代へと託されるであろう。彼を育んだ太地の青い海の波紋のように、人々に伝播(でんぱ)し続けるはずだ。

(2023年1月1日付紙面より)

石垣栄太郎(右)と父政次(石垣記念館提供)
ボーナスマーチ(和歌山県立近代美術館所蔵)
2023年01月01日
23 護岸整備や避難タワー  各地区で進む津波対策  
2023年01月01日
24 円柱防波堤で津波減衰  生徒研究が全国大会へ  (新宮高校 )
2023年01月01日
25 嗚呼!!壮絶かな、観光合戦!!  古資料からみる「観光地のあり方」  
2023年01月01日
26 「神倉旧記録」への挑戦 「御燈祭り」とはなにか。 
2023年01月01日
27 M地記者の冒険  西国三十三所、観音道の巡礼へ  
2023年01月01日
28 描いて、彫って、刷って!  熊野の版画の今むかし  
2023年01月01日
29 飛躍する、熊野。ウィズ・コロナと地域振興  熊野地方10市町村のリーダーが語る、「熊野の2023年」  (Kumano Summit K10 )
2023年01月01日
30 いつか球界を代表する存在に  野中天翔投手、プロ野球選手としての出発点  
2023年01月01日
31 灯台の存在さらに身近に  航路標識協力団体指定で  (串本町 )
2023年01月01日
32 地域の魅力を伝えたい  熊野本宮とりそば下地橋店主・木村友紀さん  
2023年01月01日
33 鎌倉時代の高僧、法燈国師の頂相  300年以上前から熊野地方のとある寺に  
2023年01月01日
34 ウィズコロナ 催しの在り方   
2023年01月01日
35 子どもも大人もみんな集まれ!  村民会館の改修進む  (北山村 )
2023年01月01日
36 100代以上続くアタガイウチ 三重県指定有形民俗文化財「諸手船」 (紀宝町)